このページは脳血管障害のため嚥下障害に罹られた夫の看病をされた妻の介護の記録です。夫が今まで聞いたことのない嚥下障害になり、戸惑いながらも家族の皆で協力しあいながら夫を献身的に支えていく中で感じられたことを、平成13年1月14日に神戸市医師会館で開催された兵庫県主催のシンポジウム「摂食嚥下を考える」の会場で「家族の声」としてお話になった内容です。
患者さんを支える家族の方の、さまざまな工夫をこらした介護の様子が手にとるように語られています。
このエピソードに登場される永田 良一郎さんは、大正14年1月3日にお生まれになり、神戸市三宮に江戸末期から続く老舗の家具店「永田良介商店」の4代目(永田家具工芸株式会社
取締役会長)として多方面(全国家具組合連合会 会長など)にわたりご活躍中の方でした。昭和57年4月29日には藍綬褒章も受賞されていらっしゃいます。 (典子夫人と共に) |
私は神戸市中央区に住まいします永田典子と申します。
私の夫、良一郎(当時73歳)が嚥下障害者になりましたのは平成9年12月のことでした。
夫はその2ヶ月前の10月27日、朝から左の手足が異常にしびれて気持ちが悪いと申して擦ったり揉んだりしておりました。午後になって近くの六甲病院へ診察してもらおうと、ジーパンにスニーカーという気楽なスタイルで自分で歩いて出かけました。本人ももちろんですが、その時いったいだれがその後のことを予想できたでしょうか。こうして私どもの嚥下障害との戦いが始まったのでした。
診察の結果、思いもよらない右の脳梗塞との診断で、そのまま入院となってしまいました。夫は、「病院から近いし、入院の用意もしたいので自宅へいったん帰りたい」と申しましたが、家で倒れたりされては大変でしょうからこのまま入院なさって下さいとの病院側の申し出に、やむなくそうすることにしました。その週は会議が3件も入っていましたので、夫としては不本意ながらの入院だったのでございました。
入院から3週間後には脳幹に出血のようなものが見られるという診断で、急遽脳神経外科のある大学病院に転院しました。そして10日目には脳圧が急激に上がりまして緊急手術を受けました。その結果嚥下障害が残ったと言うわけです。
嚥下という言葉さえ知らなかった私でございます。夫がこのような結果になったことに戸惑うばかりでございました。
口から水一滴も飲めない、栄養補給は鼻からのチューブで流動食、左手足の麻痺という哀れな姿。残された数少ない機能の会話だけが自由になるという状態に、夫は「手術をしてくれない方が良かったのに」と申しました。どうしてあげたらよいのか、何をしたら良いのか考えるすべも無い私どもでございました。「急なことでごめんなさい。」とただ夫に詫びるだけでした。
私や孫たちの必死の思いに支えられてはいたもののはかばかしい進展もないままに日日が過ぎてゆきました。
術後7ヶ月目にMRIの検査の結果、頭の中の傷は異常のないことがわかり、翌平成10年6月に始めの病院に戻りました。病院に戻りましてから前病院長の瀬籐晃一先生が、神経が本当に切れているのか診断をして下さる耳鼻咽喉科か歯科の先生のお医者さんをインターネットで探しましょうとおっしゃって、私どもが全く知らなかった嚥下療法の話をして下さいました。先の見えない不安な看病の毎日でしたが院長先生が復帰への糸口を教えて下さったのでした。
そのような中、ふとしたきっかけから長崎県の歯科医師、山部一実先生と電話でお話をすることができ、平成10年9月には神戸まで来て下さり診察を受けることが出来ました。診察の結果、「手術後10ヶ月が過ぎているけれど、訓練すれば味を楽しむことは大丈夫出来ますよ。希望を持ってください」と言われた時は、夫と私達家族がどんなに嬉しかったかわかりません。
夫も私どもも、暗くて長いトンネルのなかで明るい出口を見出したといえば大げさでしょうか。
リハビリについてもいろいろアドバイスを受けてチャレンジしてみました。家族でもできるリハビリにアイスマッサージがあります。これは頬の内側の粘膜や舌の表面、出来るならば喉の奥の部分なども行なった方がいいようですが、これらの部分を氷の棒で冷やす方法です。割り箸などの先に綿花を巻き付けて水に浸してそれを冷凍庫で凍らせてアイス棒の小さいものを作ります。それを使って口の中をマッサージするのですが、夫の味覚がどのようになっているのかが気になりましたので、凍らせる際にいろんなジュースを試みてみました。はじめはレモン水で試してみました。夫は「これ酸っぱいな、ミカンか」と私に尋ねましたので、「わかります?レモンですよ」と言って、「お父さん、味わかるやん!」って言いましたら「あー、そうやな」と申しまして味を感じることが出来たことを二人で喜び合いました。それから、水以外にはオレンジ、カルピス、イチゴ、ぶどう、紅茶、コーヒーなどと味のはっきりしたものを使って「今日は何だと思いますか?」などと遊びを取り入れながら行なってみました。カルピスの時は「これ、甘いなー」と言いましたので、「甘いだけですか」ともうしましたら「はーん」と言いますので「これお父さんの好きなカルピスですわ」と言うと「そうかー」と少し口惜しそうな表情だったのを記憶しております。味の濃いコンソメスープや、味噌汁なども使ってみました。このアイスマッサージと口腔ケアは1日に朝、夕の2回は行なうようにしました。
家族も皆で必死におじいちゃんを支えておりました。平成11年のこの年のお正月は一時帰宅をさせて頂き、自宅で迎えることが出来ました。元日のお祝いの席でのことです。夫が「おじいちゃんはもうダメかと思うような病気だったけど、皆が病院に来て励ましてくれたから、こうしてお家でお正月を一緒に迎えられてホントに嬉しい。みんなありがとう」って孫たちに礼を言ったんです。そしたら一番ちびの幼稚園の孫が「あたしおじいちゃんに言いたいことがあんねん。」と申しまして、「おじいちゃん、去年はおじいちゃんが病院に寝たままだったからお正月が一緒に出来なかったけど、今年は一緒に出来て嬉しいです。おじいちゃんが自分の口から一日も早く何かが食べれるようにこれからも私たちが応援するから、おじいちゃんもがんばってください」ってメモに書いてきて言うのです。それを聞いて私たちも何ともいえなくなってもう皆で泣いたんです。
孫たちは孫たちなりに考えてリハビリの手伝いもしてくれました。「おじいちゃん、左手でジャンケンしようよ」といって麻痺のある方の手で一緒にジャンケンをしてみたり、男の子は指相撲をしてくれたりと、家族の協力と言う点では皆で頑張って夫を支えてくれました。
嚥下のリハビリのことではインターネットでさまざまな情報を集めてくれたのは息子の方でした。そうしていくつかの病院にもご相談に伺いましたが、ある大学病院では大学の系列が異なるために入院を断られました。一番口惜しかったことにこのようなことがありました。診察をして下さった先生が、「永田さん、あなたはどれくらいまで食べられたらいいなと考えとられるんですか?」と聞かれましたので、主人が「そうですね、まー、朝食にミルク紅茶とトーストが食べれたらね、それで嬉しいです。」って言うたんです。そしたらその先生が「それはー! そんな高望みをしてもらったら困りますね。それはもうダメです」って。こんな悲しいことはなかったですね。あんな辛かったのは忘れられません。嫁と一緒にいっておりましたがそう言われた途端、私も涙が出てくるし、嫁がね、横向いてパーっと泣き出してね。そしたら主人にゴーっと震えがきたのです。それで、「すみません。なんか震えがきてますから寝かしてください」って処置室で寝かして頂いて毛布を5枚くらい巻いて、来る時は車椅子で来ましたが、帰りはストレッチャーで六甲病院に連れて帰ったんです。戻ってから熱が下がらなかったので夜中まで私病院にいました。本人の目の前であんな言い方はどうかと思いました。
平成11年の1月には、山部先生の御紹介で西宮市の耳鼻咽喉科、溝尻源太郎先生が検査機械を持って検査に来てくださいました。そして「大丈夫、神経は切れてはいないよ。」とおっしゃってくださり、夫は生きる勇気を持つ事ができました。しかし、言語療法の先生はなかなか見つかりませんでした。やっと平成11年4月に言語訓練の出来る老健へ移ることが出来ました。また、経管栄養の鼻腔チューブから胃瘻に変えていただきました。老健では言語聴覚士の小椋脩先生の熱心なリハビリに夫も真剣に取り組みました。リハの後はぐったりすることもありましたが、4ヶ月ほど経った8月には小指の先程の氷のかけらを飲み込むことが出来ました。その時、その場に居合わせた皆、手をたたいて喜び、そして泣きました。夫は「冷たいのが気持ちがええな」と申しまして、小椋先生に何度も「ありがとう、ありがとう」と申しておりました。このとき手術をしてから1年8ヶ月も経っていました。それから調子の良い日には少しづつ味を楽しむことが出来るようになりました。節分の頃にはおはぎに挑戦し、しっかり噛んでゴックンと飲み込むことが出来ました。
主人は嚥下障害になって2年と半年後の平成12年6月12日に肺炎で亡くなりました。享年76歳でございました。主人はうなぎが好物で、うなぎを食べれるようになりたいと入院中には常々申しておりましたが、叶わぬままでございました。主人の訃報を聞いた行きつけのうなぎ屋のご主人が、うなぎの蒲焼を持って駆けつけて下さったので、棺の中に入れてあげました。
生きる力を精一杯頑張った夫とその家族の闘病生活の一端を厚かましくお話させて頂きましたが、家族の思いとしては、もっと早く嚥下のリハビリを受けていたら本当に口からいろいろと食べることが出来たのではと悔やまれてなりません。そして同時にわが国の医療分野のなかで摂食嚥下障害に対する現場の取り組みの遅れを痛切に感じました。今日、才藤教授のご講演やシンポジスとの方がたの前向きなお話をお伺いして今さら私がお願いすることではないとは思いますが、最後に家族の切なる声としてお聞きいただきたく思います。
第一にもっと横の連携を取っていただきたいという事です。高齢社会に入りました今日ですが、嚥下と云う言葉も知らないのが一般社会です。介護をする家族のものにとって飲み込むということがどんなに重要であり、大変であるか全く判っていませんでした。夫の看病の過程を通して私は少しだけ学ぶことが出来ましたが、はっきり申し上げて入院中にきちんとした嚥下の評価や訓練を指導していただける病院はまだまだ少ないと思います。また、お医者さんどうしの横の連携が取れていないようにも感じました。脳神経外科、整形外科、内科などなどそれぞれの専門分野に関わらず、病院の先生方がかみしもを脱いで手をつなぎ合って横の連携を取ってくださるようにお願いしたいと思います。そしてまた私達家族が相談できる窓口を作っていただきたいと思います。口幅ったいことを申し上げますが、そのような窓口がどこにも無いのです。
二番めにリハビリをすすめる際の家族の役割ということです。リハビリは毎日の積み重ねが大事ですから看病にあたる家族のものができることをぜひご指導下さるようお考え下さい。私は山部先生からFAXやビデオでご指導を受け自分で勉強しました。そして少しは夫のリハビリにも役に立っていたと自信を持っております。このように日々の介護を担う家族にもできるリハビリを家族の立場にたって指導していただければと思います。
三番目に申し上げたいのは、介護をされていらっしゃるご家族の方へのお願いです。病院でリハビリをしてくださる先生、それと看護や介護に携わってくださる皆さんのご苦労をよく理解して頂きたいと言うことです。そしてまた家族の方も訓練に参加していただきたいと思います。嚥下訓練については危険が伴うものです。特に気管に入らないようにと先生方は神経を張り詰めて訓練をしてくださっています。毎日が真剣勝負といっても言い過ぎではないのです。そのような勇気のいる作業をして頂くということをよく家族は理解してお任せするということが、訓練をする側とされる側との信頼関係に繋がってゆくと思います。
最後になりましたが、私達夫婦は恵まれた環境で、そして良き先生方との出会いがありましたからこそ、夫は幸せだったと感謝いたしております。短い時間ではございましたがお話をお聞きくださり感謝いたします。どうもありがとうございました。
入院される3ヶ月前の永田氏(家族全員で)
兵庫県主催のシンポジウム「摂食・嚥下を考える」の会場での 永田婦人のお話をお聞きになった皆さんの感想です。 |
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<神戸会場>
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